日露戦争と堤三代吉

日露戦争余話
1998年.10月  豊田ひろし

 

日露戦争と堤三代吉
 1.日露戦争
 2.堤三代吉の家系と墓石
 3.旅順戦と堤三代吉
 4.堤三代吉の墓碑銘・碑文(漢語文)
 5.墓碑銘の仮の訳

1.日露戦争
リンク 日露戦争に関する公文書記録他

 日露戦争は,韓国や満州(現在の中国東北部)の経済的支配をめぐり,1904年から1905年(明治37〜38)にかけて行われた日本とロシアとの戦争である。 

 この戦争に先立ってロシアは中国での内乱(義和団の乱)に乗じて,それまで獲得していた満州の鉄道利権を保護するという名目で大軍を投入して満州に駐屯していた。
 イギリスはすでに,アヘン戦争以後中国での利権を獲得していたが,新手の植民地支配に乗り出したロシアの満州進出に反感を抱いていた。このため,日本と1902年に日英同盟を結び,ロシアの極東進出を阻止する力として日本の軍事力を利用しようとしていた。
 日英同盟の成立によってロシアは3期に分けて満州からの兵を引き揚げることを約束したが,第2期の引き揚げを実行しなかった。ここで,日本は韓国と満州における利権獲得のため,ロシアとの交渉に入っ
たが,互いの利害が対立し日本の主張に対してロシアは強硬に反対した。
 1903年の2月8日に日本海軍の連合艦隊の主力は旅順港外でロシア艦隊を奇襲攻撃し,陸軍の部隊は韓国の仁川に上陸し,2月8日にロシアに戦線を布告し,ここに日露戦争が始まった。
 戦争は日露両軍の総力を結集した戦いとなり,遼陽の戦いでは,双方ともに2万名以上の死者を出した。また乃木希典(まれすけ)を司令官とする旅順の戦いでは,日本軍は6万名近くの死傷者を出すし烈な戦いとなったが,結果的には,旅順では日本が勝利を収めた。
 1905年5月には,東郷平八郎率いる連合艦隊が対馬海峡沖での日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に対し勝利を収め,戦局の趨勢(すうせい)を決めることとなった。
  しかし,いかに勝利を収めたとは云え,この頃すでに日本は,戦争のための軍事力も戦費もこれ以上の継続は限界を超えていたのである。
 ところが,日本にとって運がよいことに,1905年1月にロシアでは第一次革命が起こり,ロシア政府は国内の革命運動の抑圧が最重要だとの方針を打ち出し,日本との講和の締結が必至となったのである。一応なんとか日本の勝利に終わった戦争ではあったが,講和以後,日本による朝鮮支配,満州の独占的な支配が本格的に押し進められるようになる。

参考 

 司馬遼太郎の著書「坂の上の雲」(文芸春秋,全6刊)には,日清戦争から日露戦争に至る歴史的な背景,陸軍や海軍を実際に動かした人物,日露戦争の戦術と戦略などについて,各種のエピソードを交えながら,史実に基づいた克明な描写がある。小説風に書いてあるので読みやすい貴重な書である。しかし,戦闘状況についての具体的な描写は省略されている。

  リンク 司馬遼太郎氏の小説「坂の上の雲」と公文

2.堤三代吉の家系と墓石 
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 茨城県常陸大宮の駅前を真っ直ぐ数十メートルほど進むと大通りに突き当たる。この通りを左に曲がって数分ほどいくと,小澤眼科がある。この場所が堤三代吉の先祖並びに子孫代々の家が住んでいた跡地である。
 堤家の墓は,小澤眼科からすぐ近くの西方寺にある。墓地の中央奥にある一郭の一段と高いところに墓地全体を見下ろすように立っているのが,堤三代吉の墓である。

三代吉の墓 題字

 三代吉は堤平七の次男として明治8年10月2日,茨城県那珂郡大宮町に生まれた。平七には,他に長女きし,長男安吉がいた。きしは綿引家に嫁いだが,安吉は病弱のため絵師として生涯を独身で過ごし39歳で亡くなっている。
 次男の三代吉が,日露戦争で戦死したため,堤家はきしの次男である綿引健造を養子に迎え,現在,健造の子孫が家を継いでいる。
 三代吉の墓石は,大きく重かったため,町中総出で大八車何台かに載せて遠方から運んできたという。もちろん,クレーン付きのトラックなどはなかった時代のことであり,その時の写真が現在も堤家に保存されている。
 三代吉の墓石を運んだ当時の写真へ
 この墓石の特徴は,前面に乃木大将直筆の題字があり,残りの3面に三代吉についての記録,特に,日露戦争における戦いの様子が碑文として刻まれ詳細に記録されていることである。現在は,かびに腐食され殆どの文字が読みにくくなっているが,幸い,墓石設立当時にとった拓本が堤家に残っているので全文を読むことができる。
 それによると,この碑文は乃木将軍が正面の題字を書き,三代吉の父である平七が三代吉の師であった上官の寺西積に依頼し,寺西が三代吉の軍隊生活,戦場における記録を調査して克明に記したものである。
 次に述べる内容は,日露戦争における旅順戦の実態とこの拓本に基づいた三代吉の戦闘中の行動についてである。

3.旅順戦と堤三代吉
    
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太平洋戦争における戦死者の通知は一片の葉書で親族に通知されたに過ぎない。戦争の兵器が近代化するとともに,軍隊における上官と部下の関係は形式化し,人間性の欠落した集団となった。その様子は,野間宏が日本の軍隊生活を描いた小説「真空地帯」などにみごとに描かれている。しかし,明治の御代は,軍隊生活にもゆとりがあり,平時は勉学や趣味に取り組むこともできたようである。
 三代吉は,明治8年10月2日生まれである。小学校,高等小学校を優等で卒業。明治26年に茨城県の農事講習所で全科
を卒業し,東京に出て2年間東洋英文学会予科で学び明治28年6月に卒業する。その半年後の12月に徴兵で陸軍の第一師団歩兵第一連隊第十一中隊に入隊する。
 三代吉は,碑文を書いた寺西積より四書五経について学び,軍隊に居ながら柔剣術を学ぶ以外に,和歌をも学び,浄土教に入門し,なんとお茶やお花まで師匠に就き学び,皆免許を取っていた。平時のときとはいえ,とても,昭和の御代の軍隊では考えられない事柄である。 
 三代吉はとくに射撃にすぐれ,射撃の競技において各種の賞を受けた。今日の時代であれば,射撃のオリンピック候補者になっていたかもしれない。
 明治28年の入隊当時は二等卒であるが,29年5月に韓国守備に就き,30年1月に歩兵一等卒,5月に韓国より帰国後歩兵上等兵となり,30年12月には歩兵二等軍曹になる。32年に官等改正により歩兵軍曹となる。34年8月には歩兵曹長となり,35年の5月に台湾守備につく。36年7月に台湾より帰り,37年4月に歩兵特務曹長となる。
 37年の9月には歩兵第一聯隊の第十一中隊付きの小隊長として旅順に向う。旅順は韓国と中国との間にある黄海に突き出たリャオトン(遼東)半島の先端にある。旅順はロシアが満州,韓国に対する政治的支配を目指した軍事的要塞であった。
 満州における戦闘の中で最大のものは,遼陽,旅順,奉天の戦いであった。明治37年8月19日,乃木希典第三軍司令官は旅順第一回総攻撃の命令を下した。しかし,この戦いは24日まで続き,作戦の失敗により日本軍の死傷者は続出し,ロシア軍の十倍の一万五千あまりにも達した。
 歌人与謝野晶子が雑誌「明星」に詩「君死にたまふこと勿れ」を発表したのは,明治37年の9月号である。晶子はこのとき,まだ旅順における悲惨な結果は知らなかった。


 君死にたまふこと勿れ

 (旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)


  あゝおとうとよ君を泣く
  君死にたまふことなかれ
  末に生まれし君なれば
  親のなさけはまさりしも
  親は刃(やいば)をにぎらせて
  人を殺せとをしへしや(教えしや)


 同年8月28日から開始された遼陽の戦いでは,ロシア軍の死傷一万六千に対し,日本軍は二万三千に上る死傷者を出した。
 旅順の要塞は分厚いコンクリートで固められた難攻不落の要塞であり,そこから雨あられのごとく飛んでくる機関銃の弾丸や地雷によって,日本軍は屍の山を築き,第一回の総攻撃は失敗に終わったのである。
 三代吉は,第二回の総攻撃に備えて,爾霊山(にれいさん:二百三高地)の麓まで坑道を掘る工事を命じられていた。工事中に弾丸は雨のように注ぎ,土のうを破り負傷者,死傷者が続出した。そのとき,三代吉は兵士達の前でまるで酒宴の席かのように剣舞を演じ,兵士の士気を高揚させた。小隊長としておよそ50日もの間諸兵を精励従事させ,至難の工事は完成する。
 この坑道工事について当時の新聞は将校談として次のように述べている。

 明治37年11月25日(読売(現代語訳)
 海や陸の上の戦争については我々がよく聞くところであるが,地下の戦いというに至っては,昔の人は夢にも見たことがないだろう。そのすざましさとひどさは言葉に尽せずこの世の地獄ともいえるむごたらしさである。敵も見方も退散の道はなく穴の中の爆裂によって皆殺しになる。・・・・
 敵も日本軍の坑道作業を邪魔しようとして同じように坑道を掘ってくる。互いに近づくと相手の作業の音が聞こえてくるので,互いに相手の坑道が自分達のものより深いか浅いか,また左右どちらに偏っているかを測定し,少しでも早く相手の坑道を先に爆発させたほうが勝ちになる。旅順の要塞は山肌が膨大な量のコンクリートで何百メートルもの高さに固められていて,とても乗り越えることはできず,これを坑道作業をすることによって爆破することが必要であった。このため,何回も決死隊を出しては坑道による破壊がなされた。

 続いて10月26日第三軍は,第二回の旅順総攻撃を行う。第三軍は第一,第九,第十一師団からなり,三代吉も第十一師団軍の一人として総攻撃に参加する。27日の戦いでは三代吉が所属していた隊の大隊長が戦死する。中隊長がこれに代り,そのため三代吉は中隊を率いることになる。敵弾は身辺に注ぎ,兵士達が畏縮しているときに,三代吉はゆうゆうと「四百余州(しひゃくよしゅう)」(元冦:げんこう)の軍歌を大声で歌い出した。


 四百余州を挙(コゾ)る 十万余騎の敵
 国難ここに見る 弘安四年夏の頃
 なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
 正義武断の名 一渇して世に示す

 多々良浜辺の戒夷(エミシ) そは何蒙古勢
 傲慢無礼もの 倶(トモ)に天を戴かず
 いでや進みて忠義に 鍛えし我がかいな
 ここぞ国のため 日本刀を試し見ん


 ・・・・・・・・・・
 この歌を聞いた兵士達は,落ち着きを取り戻して進軍を始める。前方に鉄条網が見えた。土のうを積んで戦う中,他の隊が決死隊を募集して,鉄条網を破ろうとする。しかし,成功せずにせん滅される。
 当時の鉄条網の破壊作業は,想像を絶するものであった。当時の新聞によると,たとえば,南山の攻撃では,鉄条網は長さが1000メートル,幅が30〜40メートルもあった。歩兵は鉄条網の前で乗り越えることも潜り抜けることもできないし,簡単に取り除くわけにもいかない。そこをねらって機関銃の一斉射撃がなされる。敵弾が雨あられのように飛んでくる中で,日本の兵士達どんどん屍を築いていく。続いてくる兵士達は,その屍の上にまた倒れ,やがて,屍は鉄条網を覆い隠すようになる。屍が築いた橋が鉄条網の川を渡れるようになって,後から続く部隊が屍を踏みつけながら敵の陣地に肉薄していくのである。まさに,このときの惨状は地獄絵そのものであった

 
三代吉は,
 「我が隊に決死隊にならないものがあろうか。他の隊に劣ることはない。」
と叫びながら,五尺(一尺は30.3cm)ほどの長さの棍棒で土のうを飛び越えて猛進する。あとから,兵士達が土のうを越えて続く。伏しては進み,また,伏しては進む。ついに鉄条網を破ることができたが,途中で死傷するもの多く,すでに生存者は四分の一になっていた。

 
敵弾が激しく注ぐ中,三代吉は兵士達を叱咤(しった)し前進の命令を下すが,その度に狙撃される。兵士達は動いたり止まったりしてたじろぐ中,三代吉は勅語を朗読する。

 
これに感激し鼓舞された兵士達の一隊は敵弾をものともずに,鬨(とき)の声をあげながら,第二散兵壕を急襲した。この後三代吉は兵士達七名と大岩の陰に隠れた。このとき,壕に残っていた兵士達は敵の手榴弾の爆発により悲惨な最期を遂げ全滅する。
 三代吉は考えた。明朝,後援隊の先頭となって,砲台を奪い取るための先頭となり第十一中隊の功としようと。

 
夜中はときどき敵の照明弾が目の前を照らす。大砲の音が山の下に轟く。夜を徹しながら明け方になると,昨日苦戦した山腹に多数の穴が見え,後援隊が穴から出たりはいったりしているのが数条の線になって見えるではないか。空は既に明るくなり,砲撃,銃声が盛んに聞こえる。各所から閧の声が挙がり耳をつく。敵は山の下の後援隊に対して機関銃や大砲の掃射を行う。
 三代吉が砲台に手榴弾を投げ込まんとして岩の上から半身を乗り出し,砲台までの距離を目測しようとしたとき,ロシア兵に気づかれ,一発の銃弾が三代吉の口から後頚部を貫いた。岩から倒れ落ちた三代吉は何か云おうとしたが既に何も話すことはできなかった。
 従卒は三代吉を背負い下山し包帯所に運ぶ。途中,三代吉は額に銃弾を受け,さらに兵卒も肩に銃傷を受けた。三代吉は第一野戦病院に入り,翌日死亡する。ときに,明治37年11月28日午後11時であった。激戦で奮闘し敵壘に迫った功により,三代吉は陸軍歩兵少尉に任じられ,正八位,功六級金鵄勲章,勲六等単光旭日章を授けられる。

乃木希典の執事よりの手紙で位勲について書かれている。

 三代吉の辞世が残されている。

 弓矢もる 身は敷島の桜花 吹く山風をいかで忘れむ
 
(弓矢を守る兵士としてのこの身はまもなく桜の花のように散るであろう,しかし,故郷に吹く山風をどうして忘れることができようか。)


 さらに,十一月二十六日第三回の旅順総攻撃が開始される。何回もの白だすき決死隊が繰り出されたが,敵の要塞から打ち出される雨のような機関銃の弾は決死隊の屍の山を築いた。激しい戦いが続く中,ついに,12月6日難攻不落といわれた旅順の二百三高地が陥落する。第三回総攻撃での日本軍の死傷者は一万七千であつた。
 旅順の戦いでは,百五十五日の日数を費やし,日本軍は死傷者五万九千名を出して攻略戦を終えた。
 日露両軍の最初で最後の決戦である奉天大会戦は明治39年3月1日に開始され,日本軍25万,ロシア軍35万で一週間の激戦の後,死傷者は日本軍7万,ロシア軍は捕虜も含めて9万に及んだ。
 日露戦争の日本の動員兵力総数は108万8916人,戦死,戦傷,病気で倒れた将兵は約37万人,実に3分の1以上に達している。この戦いで日本の兵力,弾薬はなくなり,国家財政も破綻に窮していた。
 日露戦争の戦費は17億円に達し,戦争前年の1903年の一般会計歳入2億6000万円の7倍,租税収入1億4千600万円の12倍の巨額であったから,国民に負担させた15億の国債だけではとても足りず,英米資本の経済的な援助無しには戦争遂行は不可能だったのである。日本人の生活は窮乏に貧し,戦争後は労働争議が活発化していく。数年後の明治40年(1907)には経済恐慌が起きる。とても,現在の不景気どころの騒ぎではなかった。
 当時,ロシアの兵力はまだ十分に残っていた。しかし,日本はこれ以上の戦闘継続は無理であり,早期の講和が必要だったのである。すでに触れたように,ロシアは自国の革命対策に追われ,戦争継続の余裕はなかった。それにもかかわらず,自国を敗戦国としては認めなかった。日露講和においては,日本のロシアに対する賠償請求はまったくなかった。
 歴史に「もしも」は成立しないが,もしも仮にロシアに第一次革命が起こらなかったとすると,革命鎮圧に向っていた精鋭部隊が日露戦争に参加し,兵力,武器弾薬に優っていたロシアは,日本に勝っていたことであろう。そのときは,日本はロシアの属国となっていたかもしれない。皮肉なことに,ロシア革命が日本を救ってくれたのである。
 日本では,日露戦争後も軍備拡張の政策がとられ,戦死により働き手を失った農民や労働者の生活はますます厳しくなり,労働争議が激発する。社会主義思想や自由民権運動の高まりの中で,日本は,大正から昭和へと太平洋戦争への道を突き進んでいった。

 

4.堤三代吉の墓碑銘・碑文  目次へ

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堤三代吉墓碑銘(茨城県常陸大宮西方寺・拓本は平成十年十月十日現在水戸市,堤三良氏宅保存)


墓石左側面

君氏堤名三代吉以明治八年十月二日生於茨城縣那珂郡大宮町堤平七次男也明治二十五年四月郷學高等小学校全科卒業二十六年五月本縣農事講習所全科卒業皆成績優等爾後遊東京二年八年六月東洋英文學会豫科卒業十二月一日徴兵入隊属第一師団歩兵第一聯隊第十一中隊餘暇就予受漢学殆十年主授經書頗穎悟學超倫詩與文亦稱之資性端愨而温順見義而能為平居寡言然一開口不苟已又学和歌於菅仲達及他之師初入浄土教後就西有穆山入隈元實道之門受振気流柔剣術至茶及生花之流各就其師皆得免許二十九年五月于役韓国守備旁為京城學堂嘱教師三十年一月為歩兵一等卒五月期満歸自韓国同月為歩兵上等兵七月競點射撃第三等賞十月射的優等賞同月日本體育会運動競技会柔剣術五人勝十二月任歩兵二等軍曹三十二年十二月官等改正任歩兵軍曹三十三年三月競點射撃第三等賞三十四年七月曹洞宗青年夏期講習會卒業八月任歩兵曹長三十五年一月競點射撃優等賞五月于役臺灣守備七月下士團射撃奨勵會第二等賞八月同上第一等賞撰下士團庭園記三十六年四月下士團射撃奨勵會第二等賞五月競點射撃優等賞六月下士團射撃奨勵會優等賞七月交代歸自臺灣三十七年四月任歩兵特務曹長九月従留守歩兵第一聯隊補充大隊發東京自宇 品向清國是旅順之露軍征討之役也上青泥窪至雙台溝為野戦第一師団歩兵第一聯隊第十一中隊附小隊長蓋我師圍旅順之露軍而攻之也爾靈山固而不易近故有作電形坑道於其山麓之擧明治三十七年十月六日以来君與一人之僚官同監焉強敵在前随工事進而危険益甚矣彈


墓石後面

丸雨注破土嚢害工事負傷戦死者續々倒横然君之於此間泰然無遽色如給酒於士卒時演剣舞鼓士気等其豪膽勇気能使諸兵精勵従事凡五十日只有君董率得宜而至難之工事完成各隊莫不相傳以嘆稱其豪勇矣坑道既成焉自其翌二十七日進行突撃大隊長死中隊長代之故君交代之率中隊敵弾注於身邊全隊畏縮君悠々大聲唱四百餘州之軍歌全隊和之直進至看鐵網處積土嚢而相戦此時本隊亦募決死兵為一隊期破鐵網而進來然不能至於其所期而殱滅焉君見之也蹶起下令曰我兵何不決死隊必勿劣於他隊揮五尺許之棍棒飛越土嚢猛進全隊何可躊躇一齋吶喊超土嚢而進也忽伏其姿矣又進也忽伏其姿矣且進且伏遂破鐵網而進也此間或傷或弊既減戦力四分之一然敵彈益激注一隊次且君叱咤號令前進之下擧頭輒見撃故皆将動而不動君儼立於隊前朗讀勅語聞之者誰不感激使一隊眼中無敵彈乃吶喊攀登卒襲其第二散兵壕而據焉君與其兵七人且蔭于大岩之下餘兵皆伏于壕中也敵忽投擲彈而爆発四散壕中之惨状不忍見然無奈其全滅矣日漸暮君意或以為乗暗夜而退却然則没苦戦至此之功了不若待明朝為後援隊之先頭取砲臺以我第十一中隊収先登第一之功乃決明朝時々敵之光彈輝於眼前機砲轟於山下徹夜豈可眠哉將曙俯瞰昨日所苦戦之山腹則有数多之穴是後援隊 來掘此穴以匿其身者其兵或出或宛為数條之黒線也天既明砲撃轟々銃音盛起各所吶喊之聲衝耳敵亦發機砲掃射山下也君命窺敵状乃一人匍匐登于岩上則敵之砲臺在眼前也彼專注意於山麓如不知我之近在其眼下君欲投擲彈於其砲臺先為見其距離幾何自登于岩上而半身

墓石右側面

露焉彼始知我之在此耶一発之銃彈射君之口貫後頸部矣君之豪膽不撓亦如之何従岩上倒落然未即死如欲有所言而不能言従卒急負君下山至繃帯所是十一月二十八日午後十一時也入第一野戰病院翌日遂歿激戦奮闘迫於敵壘至如是近處而受此傷嗚呼惜哉以是日任陸軍歩兵少尉叙正八位授賜功六級金鵄勲章勳六等單光旭日章後聞君又前額有傷従卒亦其肩受銃傷是必下山途中之傷矣君年三十未娶也平素品行方正在隊中無一有受罰之事練兵上善號令其聲最美全隊為懍栗故有美聲之稱若求面会者不言姓名曰美聲曹長則通云嘗別宴中談及軍隊指揮之事君曰方今之軍非接戰劒闘主決勝敗於銃砲然則軍刀謂不為斬敵之用乎且我兵有違法離隊者而斬之則減一人之戦力縦令有違離者以刀背懲打之可也抜刀而指揮焉恐有斬之况激戰之際乎故予臨戰場則指揮欲不抜刀而用棍棒所謂揮五尺許之棍棒者果踐其言也予與君有師弟之誼其父平七老之所以請銘於予也君有和歌二首其後首戦死前四日所發一片之葉書實為絶筆是二首以為銘其歌曰

 ゆみやもる 身はしき島の桜花 吹く山風を いかで忘れむ

 君に 盡すまことは古も いまも如何でか かはりあるべき

明治四十三年十二月   
陸軍大将從二位勲一等功一級乃木希典閣下題字 
 正六位勲六等寺西積撰並書



5.墓碑銘の仮の訳   目次へ

 堤三代吉墓碑銘の仮の訳文です。漢文はよく分からない素人の訳ですので,誤りも沢山あるはずです。どなたでも誤訳に気づかれましたら教えて下さるようお願い致します。

墓石左側面

 君の氏は堤,名は三代吉で明治八年十月二日茨城縣那珂郡大宮町の堤平七次男として生まれる。  明治二十五年四月に故郷の高等小学校全科を卒業。二十六年五月に本縣農事講習所の全科卒業。皆成績優等。其の後東京で二年を遊学し二十八年六月に東洋英文学会予科を卒業する。(二十八年)十二月一日に徴兵で第一師団歩兵第一聯隊第十一中隊に入隊する。(其の後)余暇に私(寺西積)について漢学を十年近く学んでいる。主として經書(四書五経)を授けた。大変才知にすぐれ,倫(人の道),詩及び文にすぐれ,天性は誠意あり,温順にして,正義感がある。平常は言葉少ないが,一度口を開けば言うべき事はきちんという。既にまた文学や和歌を菅仲達および他の師に学び,初めて浄土教に入ってから後,西有穆山(ニシアリボクザン)に就く。隈元實道の門に入り,振気流柔剣術を受け,茶及び生花の流派まで其の師につき,すべて免許をとる。二十九年五月に韓国守備につく傍ら京城學堂の教師に任命される。三十年一月に歩兵一等卒となり,五月に期が満ちて韓国より帰り,同月歩兵上等兵となる。七月には競点射撃第三等賞。十月には射的優等賞。同月の日本体育会運動競技会では柔剣術五人勝 。十二月に歩兵二等軍曹に任じられ,三十二年十二月に官等改正により,歩兵軍曹に任じられる。三十三年三月に競点射撃第三等賞。三十四年七月に曹洞宗青年夏期講習会卒業。八月歩兵曹長に任じられる。三十五年一月に競点射撃優等賞。五月に台湾守備につく。七月に下士団射撃奨励会第二等賞。八月に同上第一等賞で下士団庭園記にも記載された。三十六年四月に下士団射撃奨励会第二等賞。五月競点射撃優等賞。六月下士団射撃奨励会優等賞。七月には交代となり台湾より帰る。三十七年四月に歩兵特務曹長に任じられ,九月より歩兵第一聯隊補充大隊に留まり,東京を発って宇品(広島)から清國に向う。此れは旅順のロシア軍征討の戦争である。青泥窪(ダルニー)に進み雙台溝に至る。野戦第一師団歩兵第一聯隊第十一中隊付きの小隊長となる。我師団は旅順のロシア軍を包囲し攻めることになる。爾靈山(203高地)は堅固で近寄れないので作戦をたてる。速やかに坑道を山麓に作る。これは明治三十七年十月六日よりの作業である。君および一人の僚官が監視する。強敵が前方にいて坑道の工事を進めるのは大変危険である。


墓石後面

 弾丸は雨のように注ぎ,土嚢を破り,工事を邪魔し負傷者戦死者が続々と倒れた。しかし,君はこの間,泰然としてあわてず,兵卒時に酒に酔い剣舞を演じたときのように士気を高めた。(?)その豪膽さと勇気は,諸兵を精励従事させた。凡そ五十日の間,君の監督が適切であったことにより至難の工事は完成する。各隊はこのことを伝え合い,その豪勇さをほめたたえた。坑道が完成した其翌二十七日より突撃を進行するが,大隊長は戦死する。中隊長は大隊長に代わり,そのため,君は中隊長に代って中隊を率いる。敵弾は身辺に注ぐ。全隊は畏縮するが,君はゆうゆうと大声で四百餘州の軍歌を歌った。全隊はこれに和み進軍し,鉄条網を見るに至る。土嚢を積みて相戦う。此時本隊は決死兵を募集し一隊となって時期を見て鉄条網を破り進行しようとする。しかし,成功せずにせん滅される。君はこれを見て決起し,命令していわく,我が兵にどうして決死隊にならないものがあろうか。どうして他隊に劣ることがあろうかと叫び,五尺ほどの棍棒で土嚢を飛び越えて猛進した。全隊はどうして躊躇していることができようか。一斉にときの声をあげて土嚢を越えて進む。 伏しては進み,ま た伏しては進む姿あり。ついに鉄条網を破りて進行する。この間に,あるいは傷つき,あるいは倒れて死に,戦力は既に四分の一に減少する。しかし,敵彈ますます激しく一隊に注ぐ。つづいて,君は叱咤し前進の号令を下すが頭を挙げるたびに狙撃される。皆動こうとしても動けない。君は隊の前に厳然と立ち,勅語を朗読する。これを聞くものみな感激し,一隊は敵彈をものともせず,ときの声を上げて(土嚢を)よじ登り第二散兵壕を急襲し占領した。君と兵士七名は大岩の下に隠れていたが,残りの兵は壕の中に伏せていた。敵は壕中に手榴弾を投げ込みこれが爆発し四散して,壕中の惨状は見るに忍びなかった。全滅されどうしようもなかった。日はだんだん暮れていく。君は考えた。暗夜に乗じて退却すればいままでの苦戦の苦労は何の足しにもならない。明朝を待って後援隊の先頭が砲台を取るのに,自分が第十一中隊としての先陣第一の功を収めようと。そこで,明朝を待つことに決める。時々敵の照明弾が眼前を照らす。大砲が山の下に轟く。夜を徹する。どうして眠ることなどできようか。まさに夜が明けようとし,昨日苦戦した山腹を見渡せば,多数の穴が見える。これ は後援隊がきてこの 穴を掘り,その身を隠しているのだ。兵士は出たり屈んだりしているのが数条の黒い線となって見える。空は既に明るく砲撃ごうごうとして銃声が盛んである。各所にときの声が上がり耳をつく。敵は山の下に機銃や大砲の掃射を行う。君の命を窺う敵兵の一人が岩の上に這い登る。敵の砲台は眼前にある。敵兵は山麓にのみ注意していて君(三代吉)が近くにいるのを知らないようであった。敵の眼下にいた君は砲台に手榴弾を投げ込もうとした。まず,砲台までの距離を測ろうとして,岩の上に登り身を半ば乗り出した。

墓石右側面

 敵兵は始めて君に気がつく。一発の銃彈が君の口から後頚部を貫いた。豪胆不撓にも,岩の上から倒れ落ちても即死ではなく,何か云おうとしたが話すことは出来なかった。従卒は急ぎ君を背負い下山し包帯所につく。時に(明治三十七年)十一月二十八日午後十一時であった。第一野戦病院に入り,翌日,遂に死亡する。激戦で奮闘し敵壘に迫り,近き所よりこの傷を受けた。実に残念である。この日より陸軍歩兵少尉に任じられ,正八位に叙せられ,功六級金鵄勲章,勳六等單光旭日章を授けられる。後で聞く所によれば君は前額にも傷があり,従卒もまたその肩に銃傷を受けている。これは下山の途中での傷である。君の年齢は三十で未婚である。平素品行方正にして,隊にいたときには一度も罰を受けたことはない。戦闘訓練のときの号令が上手で,その声はもつともみごとで全隊の心がひきしまり,そのため美声の稱があり,面会を求めるものは姓名を云わず美声曹長と呼んでいたと伝えられる。かつて宴会のときに軍隊の指揮のことに話が及んだ。君は云う。現在の戦は必ずしも接戦,剣の戦いではない,主として勝敗を決するのは銃砲である。軍刀は敵を斬るためのものではな い。我が兵に法を 違え隊を離れる者があってこれを斬れば,一人の戦力を減らすことになる。たとえこれらの違離者があっても,刀で背中を叩き懲らしめればよい。刀を抜いて指揮すれば,斬る恐れがある。激戦の際はなおさらであると。私(寺西積)も戦場において指揮するときに刀を抜くことを欲しない。棍棒,いわゆる五尺ほどの棍棒を用いても任務を果たせるといった。私は君と師弟のよしみがある。それが君の父である平七老が私に銘を頼んだ所以である。君には二首の和歌がある。後の方の和歌は戦死の四日前に発した一片の葉書で実の絶筆である。ここに,その二首をもって銘とする。これらの歌は次のようである。

 ゆみやもる 身はしき島の桜花 吹く山風を いかで忘れむ    
 (弓矢を守るこの身は桜の花のように間もなく散ることであろう。しかし,故郷に吹く山風をどうして忘れ ることが出来るだろうか。)

 大君に 盡すまことは古も いまも如何でか かはりあるべき    
 (天皇に尽す誠はいにしえも今もどうして変わることがあるだろうか。)

  明治四十三年十二月  陸軍大将從二位勲一等功一級乃木希典閣下による題字
  正六位勲六等寺西積による撰ならびに書