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この戦争に先立ってロシアは中国での内乱(義和団の乱)に乗じて,それまで獲得していた満州の鉄道利権を保護するという名目で大軍を投入して満州に駐屯していた。
イギリスはすでに,アヘン戦争以後中国での利権を獲得していたが,新手の植民地支配に乗り出したロシアの満州進出に反感を抱いていた。このため,日本と1902年に日英同盟を結び,ロシアの極東進出を阻止する力として日本の軍事力を利用しようとしていた。
日英同盟の成立によってロシアは3期に分けて満州からの兵を引き揚げることを約束したが,第2期の引き揚げを実行しなかった。ここで,日本は韓国と満州における利権獲得のため,ロシアとの交渉に入ったが,互いの利害が対立し日本の主張に対してロシアは強硬に反対した。
1903年の2月8日に日本海軍の連合艦隊の主力は旅順港外でロシア艦隊を奇襲攻撃し,陸軍の部隊は韓国の仁川に上陸し,2月8日にロシアに戦線を布告し,ここに日露戦争が始まった。
戦争は日露両軍の総力を結集した戦いとなり,遼陽の戦いでは,双方ともに2万名以上の死者を出した。また乃木希典(まれすけ)を司令官とする旅順の戦いでは,日本軍は6万名近くの死傷者を出すし烈な戦いとなったが,結果的には,旅順では日本が勝利を収めた。
1905年5月には,東郷平八郎率いる連合艦隊が対馬海峡沖での日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に対し勝利を収め,戦局の趨勢(すうせい)を決めることとなった。
しかし,いかに勝利を収めたとは云え,この頃すでに日本は,戦争のための軍事力も戦費もこれ以上の継続は限界を超えていたのである。
ところが,日本にとって運がよいことに,1905年1月にロシアでは第一次革命が起こり,ロシア政府は国内の革命運動の抑圧が最重要だとの方針を打ち出し,日本との講和の締結が必至となったのである。一応なんとか日本の勝利に終わった戦争ではあったが,講和以後,日本による朝鮮支配,満州の独占的な支配が本格的に押し進められるようになる。
司馬遼太郎の著書「坂の上の雲」(文芸春秋,全6刊)には,日清戦争から日露戦争に至る歴史的な背景,陸軍や海軍を実際に動かした人物,日露戦争の戦術と戦略などについて,各種のエピソードを交えながら,史実に基づいた克明な描写がある。小説風に書いてあるので読みやすい貴重な書である。しかし,戦闘状況についての具体的な描写は省略されている。
茨城県常陸大宮の駅前を真っ直ぐ数十メートルほど進むと大通りに突き当たる。この通りを左に曲がって数分ほどいくと,小澤眼科がある。この場所が堤三代吉の先祖並びに子孫代々の家が住んでいた跡地である。
堤家の墓は,小澤眼科からすぐ近くの西方寺にある。墓地の中央奥にある一郭の一段と高いところに墓地全体を見下ろすように立っているのが,堤三代吉の墓である。
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| 三代吉の墓 | 題字 |
三代吉は堤平七の次男として明治8年10月2日,茨城県那珂郡大宮町に生まれた。平七には,他に長女きし,長男安吉がいた。きしは綿引家に嫁いだが,安吉は病弱のため絵師として生涯を独身で過ごし39歳で亡くなっている。
次男の三代吉が,日露戦争で戦死したため,堤家はきしの次男である綿引健造を養子に迎え,現在,健造の子孫が家を継いでいる。
三代吉の墓石は,大きく重かったため,町中総出で大八車何台かに載せて遠方から運んできたという。もちろん,クレーン付きのトラックなどはなかった時代のことであり,その時の写真が現在も堤家に保存されている。
三代吉の墓石を運んだ当時の写真へ
この墓石の特徴は,前面に乃木大将直筆の題字があり,残りの3面に三代吉についての記録,特に,日露戦争における戦いの様子が碑文として刻まれ詳細に記録されていることである。現在は,かびに腐食され殆どの文字が読みにくくなっているが,幸い,墓石設立当時にとった拓本が堤家に残っているので全文を読むことができる。
それによると,この碑文は乃木将軍が正面の題字を書き,三代吉の父である平七が三代吉の師であった上官の寺西積に依頼し,寺西が三代吉の軍隊生活,戦場における記録を調査して克明に記したものである。
次に述べる内容は,日露戦争における旅順戦の実態とこの拓本に基づいた三代吉の戦闘中の行動についてである。
3.旅順戦と堤三代吉
目次へ
太平洋戦争における戦死者の通知は一片の葉書で親族に通知されたに過ぎない。戦争の兵器が近代化するとともに,軍隊における上官と部下の関係は形式化し,人間性の欠落した集団となった。その様子は,野間宏が日本の軍隊生活を描いた小説「真空地帯」などにみごとに描かれている。しかし,明治の御代は,軍隊生活にもゆとりがあり,平時は勉学や趣味に取り組むこともできたようである。
三代吉は,明治8年10月2日生まれである。小学校,高等小学校を優等で卒業。明治26年に茨城県の農事講習所で全科を卒業し,東京に出て2年間東洋英文学会予科で学び明治28年6月に卒業する。その半年後の12月に徴兵で陸軍の第一師団歩兵第一連隊第十一中隊に入隊する。
三代吉は,碑文を書いた寺西積より四書五経について学び,軍隊に居ながら柔剣術を学ぶ以外に,和歌をも学び,浄土教に入門し,なんとお茶やお花まで師匠に就き学び,皆免許を取っていた。平時のときとはいえ,とても,昭和の御代の軍隊では考えられない事柄である。
三代吉はとくに射撃にすぐれ,射撃の競技において各種の賞を受けた。今日の時代であれば,射撃のオリンピック候補者になっていたかもしれない。
明治28年の入隊当時は二等卒であるが,29年5月に韓国守備に就き,30年1月に歩兵一等卒,5月に韓国より帰国後歩兵上等兵となり,30年12月には歩兵二等軍曹になる。32年に官等改正により歩兵軍曹となる。34年8月には歩兵曹長となり,35年の5月に台湾守備につく。36年7月に台湾より帰り,37年4月に歩兵特務曹長となる。
37年の9月には歩兵第一聯隊の第十一中隊付きの小隊長として旅順に向う。旅順は韓国と中国との間にある黄海に突き出たリャオトン(遼東)半島の先端にある。旅順はロシアが満州,韓国に対する政治的支配を目指した軍事的要塞であった。
満州における戦闘の中で最大のものは,遼陽,旅順,奉天の戦いであった。明治37年8月19日,乃木希典第三軍司令官は旅順第一回総攻撃の命令を下した。しかし,この戦いは24日まで続き,作戦の失敗により日本軍の死傷者は続出し,ロシア軍の十倍の一万五千あまりにも達した。
歌人与謝野晶子が雑誌「明星」に詩「君死にたまふこと勿れ」を発表したのは,明治37年の9月号である。晶子はこのとき,まだ旅順における悲惨な結果は知らなかった。
君死にたまふこと勿れ
(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)
あゝおとうとよ君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや(教えしや)
同年8月28日から開始された遼陽の戦いでは,ロシア軍の死傷一万六千に対し,日本軍は二万三千に上る死傷者を出した。
旅順の要塞は分厚いコンクリートで固められた難攻不落の要塞であり,そこから雨あられのごとく飛んでくる機関銃の弾丸や地雷によって,日本軍は屍の山を築き,第一回の総攻撃は失敗に終わったのである。
三代吉は,第二回の総攻撃に備えて,爾霊山(にれいさん:二百三高地)の麓まで坑道を掘る工事を命じられていた。工事中に弾丸は雨のように注ぎ,土のうを破り負傷者,死傷者が続出した。そのとき,三代吉は兵士達の前でまるで酒宴の席かのように剣舞を演じ,兵士の士気を高揚させた。小隊長としておよそ50日もの間諸兵を精励従事させ,至難の工事は完成する。
この坑道工事について当時の新聞は将校談として次のように述べている。
明治37年11月25日(読売)(現代語訳)
海や陸の上の戦争については我々がよく聞くところであるが,地下の戦いというに至っては,昔の人は夢にも見たことがないだろう。そのすざましさとひどさは言葉に尽せずこの世の地獄ともいえるむごたらしさである。敵も見方も退散の道はなく穴の中の爆裂によって皆殺しになる。・・・・
敵も日本軍の坑道作業を邪魔しようとして同じように坑道を掘ってくる。互いに近づくと相手の作業の音が聞こえてくるので,互いに相手の坑道が自分達のものより深いか浅いか,また左右どちらに偏っているかを測定し,少しでも早く相手の坑道を先に爆発させたほうが勝ちになる。旅順の要塞は山肌が膨大な量のコンクリートで何百メートルもの高さに固められていて,とても乗り越えることはできず,これを坑道作業をすることによって爆破することが必要であった。このため,何回も決死隊を出しては坑道による破壊がなされた。
続いて10月26日第三軍は,第二回の旅順総攻撃を行う。第三軍は第一,第九,第十一師団からなり,三代吉も第十一師団軍の一人として総攻撃に参加する。27日の戦いでは三代吉が所属していた隊の大隊長が戦死する。中隊長がこれに代り,そのため三代吉は中隊を率いることになる。敵弾は身辺に注ぎ,兵士達が畏縮しているときに,三代吉はゆうゆうと「四百余州(しひゃくよしゅう)」(元冦:げんこう)の軍歌を大声で歌い出した。
四百余州を挙(コゾ)る 十万余騎の敵
国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
正義武断の名 一渇して世に示す
多々良浜辺の戒夷(エミシ) そは何蒙古勢
傲慢無礼もの 倶(トモ)に天を戴かず
いでや進みて忠義に 鍛えし我がかいな
ここぞ国のため 日本刀を試し見ん
・・・・・・・・・・
この歌を聞いた兵士達は,落ち着きを取り戻して進軍を始める。前方に鉄条網が見えた。土のうを積んで戦う中,他の隊が決死隊を募集して,鉄条網を破ろうとする。しかし,成功せずにせん滅される。
当時の鉄条網の破壊作業は,想像を絶するものであった。当時の新聞によると,たとえば,南山の攻撃では,鉄条網は長さが1000メートル,幅が30〜40メートルもあった。歩兵は鉄条網の前で乗り越えることも潜り抜けることもできないし,簡単に取り除くわけにもいかない。そこをねらって機関銃の一斉射撃がなされる。敵弾が雨あられのように飛んでくる中で,日本の兵士達どんどん屍を築いていく。続いてくる兵士達は,その屍の上にまた倒れ,やがて,屍は鉄条網を覆い隠すようになる。屍が築いた橋が鉄条網の川を渡れるようになって,後から続く部隊が屍を踏みつけながら敵の陣地に肉薄していくのである。まさに,このときの惨状は地獄絵そのものであった。
三代吉は,
「我が隊に決死隊にならないものがあろうか。他の隊に劣ることはない。」
と叫びながら,五尺(一尺は30.3cm)ほどの長さの棍棒で土のうを飛び越えて猛進する。あとから,兵士達が土のうを越えて続く。伏しては進み,また,伏しては進む。ついに鉄条網を破ることができたが,途中で死傷するもの多く,すでに生存者は四分の一になっていた。
敵弾が激しく注ぐ中,三代吉は兵士達を叱咤(しった)し前進の命令を下すが,その度に狙撃される。兵士達は動いたり止まったりしてたじろぐ中,三代吉は勅語を朗読する。
これに感激し鼓舞された兵士達の一隊は敵弾をものともせずに,鬨(とき)の声をあげながら,第二散兵壕を急襲した。この後三代吉は兵士達七名と大岩の陰に隠れた。このとき,壕に残っていた兵士達は敵の手榴弾の爆発により悲惨な最期を遂げ全滅する。
三代吉は考えた。明朝,後援隊の先頭となって,砲台を奪い取るための先頭となり第十一中隊の功としようと。
夜中はときどき敵の照明弾が目の前を照らす。大砲の音が山の下に轟く。夜を徹しながら明け方になると,昨日苦戦した山腹に多数の穴が見え,後援隊が穴から出たりはいったりしているのが数条の線になって見えるではないか。空は既に明るくなり,砲撃,銃声が盛んに聞こえる。各所から閧の声が挙がり耳をつく。敵は山の下の後援隊に対して機関銃や大砲の掃射を行う。
三代吉が砲台に手榴弾を投げ込まんとして岩の上から半身を乗り出し,砲台までの距離を目測しようとしたとき,ロシア兵に気づかれ,一発の銃弾が三代吉の口から後頚部を貫いた。岩から倒れ落ちた三代吉は何か云おうとしたが既に何も話すことはできなかった。
従卒は三代吉を背負い下山し包帯所に運ぶ。途中,三代吉は額に銃弾を受け,さらに兵卒も肩に銃傷を受けた。三代吉は第一野戦病院に入り,翌日死亡する。ときに,明治37年11月28日午後11時であった。激戦で奮闘し敵壘に迫った功により,三代吉は陸軍歩兵少尉に任じられ,正八位,功六級金鵄勲章,勲六等単光旭日章を授けられる。
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| 乃木希典の執事よりの手紙で位勲について書かれている。 |
三代吉の辞世が残されている。
弓矢もる 身は敷島の桜花 吹く山風をいかで忘れむ
(弓矢を守る兵士としてのこの身はまもなく桜の花のように散るであろう,しかし,故郷に吹く山風をどうして忘れることができようか。)
さらに,十一月二十六日第三回の旅順総攻撃が開始される。何回もの白だすき決死隊が繰り出されたが,敵の要塞から打ち出される雨のような機関銃の弾は決死隊の屍の山を築いた。激しい戦いが続く中,ついに,12月6日難攻不落といわれた旅順の二百三高地が陥落する。第三回総攻撃での日本軍の死傷者は一万七千であつた。
旅順の戦いでは,百五十五日の日数を費やし,日本軍は死傷者五万九千名を出して攻略戦を終えた。
日露両軍の最初で最後の決戦である奉天大会戦は明治39年3月1日に開始され,日本軍25万,ロシア軍35万で一週間の激戦の後,死傷者は日本軍7万,ロシア軍は捕虜も含めて9万に及んだ。
日露戦争の日本の動員兵力総数は108万8916人,戦死,戦傷,病気で倒れた将兵は約37万人,実に3分の1以上に達している。この戦いで日本の兵力,弾薬はなくなり,国家財政も破綻に窮していた。
日露戦争の戦費は17億円に達し,戦争前年の1903年の一般会計歳入2億6000万円の7倍,租税収入1億4千600万円の12倍の巨額であったから,国民に負担させた15億の国債だけではとても足りず,英米資本の経済的な援助無しには戦争遂行は不可能だったのである。日本人の生活は窮乏に貧し,戦争後は労働争議が活発化していく。数年後の明治40年(1907)には経済恐慌が起きる。とても,現在の不景気どころの騒ぎではなかった。
当時,ロシアの兵力はまだ十分に残っていた。しかし,日本はこれ以上の戦闘継続は無理であり,早期の講和が必要だったのである。すでに触れたように,ロシアは自国の革命対策に追われ,戦争継続の余裕はなかった。それにもかかわらず,自国を敗戦国としては認めなかった。日露講和においては,日本のロシアに対する賠償請求はまったくなかった。
歴史に「もしも」は成立しないが,もしも仮にロシアに第一次革命が起こらなかったとすると,革命鎮圧に向っていた精鋭部隊が日露戦争に参加し,兵力,武器弾薬に優っていたロシアは,日本に勝っていたことであろう。そのときは,日本はロシアの属国となっていたかもしれない。皮肉なことに,ロシア革命が日本を救ってくれたのである。
日本では,日露戦争後も軍備拡張の政策がとられ,戦死により働き手を失った農民や労働者の生活はますます厳しくなり,労働争議が激発する。社会主義思想や自由民権運動の高まりの中で,日本は,大正から昭和へと太平洋戦争への道を突き進んでいった。
堤三代吉墓碑銘(茨城県常陸大宮西方寺・拓本は平成十年十月十日現在水戸市,堤三良氏宅保存)