サンクト・ペテルブルク大学内

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目次 1.プロローグ
    2.メンデレーエフ記念館(メンデレーエフ博物館)を探す
    3.案内書による記念館の説明とメンデレーエフの業績
       4.おわりに

 リンク  メンデレーエフでロシアを切る  メンデレーエフ記念館の写真(石川顯法氏による)
                                          1999.7月.   豊田ひろし

1.プロローグ

1855年のメンデレーエフ 1894年のメンデレーエフ

 メンデレーエフの名前は元素の周期表の発見者として知られている。最近の高校の物理や化学の教科書の表見返しには必ずといってよいほど元素の周期表が掲載されているにもかかわらず,メンデレーエフの名前を見ることはあまりない。これは,教科書が実用的な面を重視するあまり,科学史上の先人の功績を無視しているからに他ならない。
 18世紀のおわり頃は,まだ元素といってもわずかに30ほどのものが知られていただけである。その後,元素の発見は進んで,19世紀の半ばを過ぎて1860年代になると,その倍の約60の元素について原子量が正確に知られるようになった。
 その頃になると,いくつかの元素の性質がよく似たグループがある事が分かり,原子を原子量の順にならべていくと,よく似た性質の元素がほぼ同じ間隔で現れることも知られていた。
 ドイツのJ.L.マイヤーは原子を原子量の順に並べて番号をつけ,1870年には,原子容(元素の原子1モルが占める固体の体積)と番号との関係をグラフにすると,極大,極小が周期的に5個所現れることを発見している。
 ロシアのメンデレーエフはこれと独立に,1869年の2月から8月にかけて元素の原子価,化学的な性質を考慮した現在用いられているものと本質的に同じ形式の周期表を完成した。この頃,メンデレーエフが知っていた元素は63にすぎなかった。
 当時は,未発見の元素が多かったため彼の周期表には多くの空欄があった。この空欄の多い周期表に対し当時の有名な学者達は無意味な学説であると反論した物が多かった。しかし,彼はその空欄には未発見の元素があることを予測していた。
 やがて,その空欄の元素が続々と発見されるにつれて,今までの反対者も含めて周期表に対する学会の評価はにわかに高くなっていったのである。
 メンデレーエフは周期表で世界に知られるようになったが,実際はそれ以外にも多彩な活動をしていた。メンデレーエフについてさらに詳しく知りたい人のためには,次の翻訳書が参考になるであろう。

 「化学的発見のアナトミア(メンデレーエフの法則をめぐって)」(周期表の発見についての方法論的な分析を詳細に述べたもの)
         ケドロフ著,大竹三郎訳(法政大学出版局)
 「メンデレーエフ伝」(メンデレーエフの伝記,多彩な活動について豊富な写真と共にまとめたもの)
         ゲ・スミルノフ著,木下高一郎訳(講談社)
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2.メンデレーエフ記念館を探す

 現在のサンクト・ペテルブルグには,かってのレニングラード時代に訪れたことがある。翻訳のための原書の新版(基礎物理学ハンドブック:森北出版,1975年版,豊田訳)を探しに「本の家」(ドーム・クニーガ,下図参照)を訪れたのであるが,その後,昭和50年の3月に再度訪れる機会に恵まれた。このときは,中学時代の畏友で早稲田大学露文科教授である高山旭氏が交換留学でロシアにきていた。たまたまレニングラード大学(現在はサンクト・ペテルブルグ大学)に出張していたこともあって,久しぶりに会う事ができた。
 ネバ河の流氷を見に行こうということで,彼に案内役となってもらい,サンクト・ペテルブルグ内の市電に乗って大ネバ河の近くで降りた。
 林の中を散策していくと,3月といっても日本の北国の真冬と同じで,途中の小川は凍結している。しばらくして,大ネバ川のほとりに出る事ができた。河の中では,数は少ないが小さい流氷が流れてくる中で,一人乗りのカヌーで練習でもしているのだろうか,10雙ほどが乗り回っていた(下の写真)。 

まだ凍結している小川と
高山旭氏
ネバ川の向こう岸近くにわずかに
流氷が見られる。

 このあと,メンデレーエフ記念館を探すことになった。プーシキン広場から近いということは知っていたが,日本の旅行案内書からは,記念館の位置を知ることはできなかった。すれ違った町の人も知らないという。当時としては珍しい女性のタクシー運転手に聞くと,本人はいったことはないが,レニングラード大学の中らしいということが分かった。
 このあたりには,観光名所が集まっている(下図参照)。観光客が必ず案内されるプーシキン広場からは,世界3大美術館の一つエルミタージュ美術館をはじめ,ネバ河を挟んで美術館と反対側に,かっては政治犯の監獄としても使用されていたペトロパブロフスク要塞などが見える。近くには聖イサク寺院,カザン寺院などもある。これらの場所は,建物を見るだけならば1〜2時間もあればまわれるであろう(下図参照)。

 プーシキン広場から大ネバ河に沿って西に3分ほど行くと,右側に大学の通用門がある。大学に入って学生に聞くと,記念館としての特別な建物はなく,大学構内の一室だという。

記念館入り口前の大学構内 ドアのガラスにはすぐ前の構内の様子が映っている。


 校門を入ってから右側の校舎の外廊下を真っ直ぐいくと,右側の壁に小さい案内板がとりつけてある(右上の写真)のが目に入った。英語風に表現するとMuseum of Mendeleevと書いてある。案内板の左にある古びたドアが,入り口である。そのときは,十分な時間もなく,残念なことに室内の写真撮影にも失敗した。
 この記念館は,「メンデレーエフ博物館」と訳されている事もあるが,これは一度も訪れた事もない人の翻訳であって,実際には一般的な博物館にメンデレーエフの名前を冠したものではなく,メンデレーエフ個人の生活や業績を記念するためのものだけを展示してあるので,「メンデレーエフ記念館」と訳すのがよいであろう。     
 翌昭和51年の8月に今度は一人で記念館を訪れた。ロシア語といっても専門に勉強した事もなく,講習会で半年ほど文法を習い,字引を頼りに専門書を読めるようになっただけの語学力である。
 こちらの意志を伝えるのに精一杯で,相手の話など殆ど分からないのであるが,このときは振り袖姿の日本人形をお土産に持参したこともあってか,昨年できたばかりの40ページにもなる記念館の説明書(露文)を貰うことができた。加えて,管理人婦人のサービスもよく,メンデレーエフのデスマスクのフラッシュ撮影まで許可してもらい,ゆっくり見学することができた。いい忘れたが入館料は無料である。
 館内には訪問者の自筆による記録が残されている。日本の当時の訪問者としては,東京工大教授の田中実氏,科学史研究家の吉羽和夫氏の署名を見る事ができた。私も下手な署名を残してきた。

展示室内とロシア人の見学者 メンデレーエフのデスマスク

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3.案内書による記念館の説明とメンデレーエフの業績


 メンデレーエフの時代には,大学の教授達は大学の建物の中に家族全体で住む事ができた。下の図のNo.7は,かってのメンデレーエフ家の玄関である。妻の部屋,子供部屋,召し使い室など十分なスペースの住居が与えられていた。この住居の一部が現在のメンデレーエフ記念館となっている。訪問者が見学できるのは,No.1からNo.7までの部屋である。訪問者はこの番号順に見学する。
 各部屋にある主な展示物は,幼年時代,中央教育大学の学生時代,科学的活動の初期,周期律,溶液の研究,教育活動,気体の研究と気象学の分野の業績,航空上の業績,船体構造に関する業績と北極地方の開拓,石油問題に関する業績,石炭産業との関係,ウラルの学術探検,化学産業および火薬工業の分野での業績,農業の分野での業績,降神術の暴露,芸術との関係,その他である。

 各部屋毎の展示物を紹介しよう。

第1ホール(No.1)
 <幼年時代>
○19世紀後半のトボリスク(シベリアの生まれ故郷)
○両親の肖像図
○農村アレムジャーナの景色(失明した父の退職後,母マリアはこの地で
 ガラス工場を経営し,子供たちを育てた。彼は17人兄弟の末子である。)
○トボリスクの昔のギムナージア(革命前の中学校)の建物
○詩人ペ・ペ・エルショフの肖像画(当時のキムナージアで教えていた有名
 な詩人)
○トボリスクにおけるデカブリスト(1825年12月14日に農奴制と専制政治
 に反対して反乱を起こした貴族革命家たち)
○阿・エム・ムラヴィエフ家での夜会その他の資料。
 <中央教育大学の学生時代>
○エム・ヴェ・オストログラーツキー,エ・ハ・レンツ,ア・ア・ヴァスクレセンス
 キー,エス・エス・クトルガ,エフ・エフ・ブラントたちの肖像(メンデレーエ
 フを教えた教授達。ロシア化学の祖といわれるヴァスクレセンスキーは彼
 に最も大きい影響を与えた。)
○論文「フィンランド産オーサイトの化学分析」の扉(最初の化学研究論文)
○彼の記録によるヴァスクレセンスキーの講義ノートの扉
○彼が集めた植物標本
○中央教育大学の卒業論文「結晶と組成に関する同形」の扉とその他の資料
<科学的活動の初期(1856-1861)>
○学位論文「比容」の扉
○1850年代末期から1860年代初期までの基本的論稿の扉
○水の組成のダイアグラム
○彼が作ったプレパラート
○ハイデルベルグで彼と生活した若い学者達の肖像
○彼の著書「有機化学」の扉
○飽和限界論の意味を説明する図とその他の資料

第2ホール(No.2)

<周期律>
○元素のさまざまな周期系
○彼の実験ノートからの記録
○予想され発見された元素の性質の対照表(彼の予言の後に,今日のガリウム
 (1875),スカンジュウム(1879),ゲルマニウム(1886)が発見され,予言どおりの
 諸性質が確認された。)
○周期律の擁護者達の肖像と彼らの論文の扉
○エジンバラ大学(スコットランド)の名誉博士のマントをつけた彼の肖像
○フランスのキュリー夫妻の実験室の諮問についての彼の日記
○エヌ・ア・ヤロシェンコ作の彼の肖像画

第3ホール(No.3)

<気体の研究と気象学の分野の業績>
○気体の状態方程式の導入概要
○彼の実験室の器具のスケッチ
○彼の協働者たちの肖像
○論文「気体の弾性について」の扉
○メンデレーエフの気圧計とその他の資料
<航空上の業績>
○彼が搭乗した気球の写真と飛行経路図
○カ・エ・ツィオルコフスキーからメンデレーエフに宛てた手紙,その他の資料
<船体構造に関する業績と北極地方の開拓>
○著書「液体の抵抗についておよび飛行について」
○媒質の抵抗を決定する装置の正面図
○船体模型実験用貯水池建設の上申書
○実験用貯水池の外形
○砕氷船<イェルマーク>の写真
○海軍大将エス・オ・マカロフと数学者ペ・エル・チェビシェフの肖像
○メンデレーエフの図案によって作られた実験用砕氷船の模型
○<高緯度航路>の海図とその他の資料
○天秤(彼が作成した2階式のもので高さは1m数10cmもある。
 気体を入れるための大型フラスコがついている。)

第4ホール(No.4)

 ここは,彼の書斎であったために,生前の状態を保つように保存されている。彼の机の上には愛用した文具や形見がみられる(下の写真)。この部屋には,彼の著書「化学の基礎」,「有機化学」などの他,多くの蔵書があり,また,貴重なデスマスクも保存されているが,一般公開はされていない。

メンデレーエフの書斎 メンデレーエフの仕事机

第5ホール,第6ホール
 

 ここには,溶液論,教育活動,経済問題に関するもの,ウラルの学術探検,化学産業や火薬工業に関するもの,農業経済に関するもの,降神術の暴露,その他のものが見られる。彼の再婚者アンナが画家であったこともあり,彼女の筆による多くの肖像画もある。メンデレーエフは,絵画の発展に対しても支援を惜しまず,1894年に美術アカデミーの会員にも選ばれている。


4.おわりに

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 筆者は化学の専門家ではないので,紹介した訳文に不正確な点もあるかもしれない。また,メンデレーエフ記念館については,日本でほとんど紹介されていないので,科学者やメンデレーエフに興味を持つ方がでサンクト・ペテルブルグを訪れたおりにいくらかでも役立てばと思い,拙文をしたためた次第である。
 今回の文は,教科書会社として知られている東京書籍株式会社の高校通信(物理)の編集委員をしていたときに同誌に掲載した雑文を手直しし,全面的に書き直したものである。
 メンデレーエフは政治家ではないので,ソビエト社会主義政権の崩壊とは関係なく,ロシアでは現在でも尊敬されている過去の人物の一人である。ロシアの国民でメンデレーエフを知らない人はいない。最近の日本では若い人でメンデレーエフの名前を知っている人は少ないのではないだろうか。ホームページをたまたま見た方が周期表の発見者としてのメンデレーエフの名前に接する機会をもってもらえれば幸いである。